勧誘きた

シェアするか!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

インターホンが鳴るとなんの躊躇もなく扉を開けるのをやめてほしいと思った。自分に。

今度から二度と無いように細心の注意を払い、興味の無い宗教の勧誘に巻き込まれないようにしたい。切にそう願い、扉を開けたがる(?)自己を律すると誓った。

宗教にぶちハマっている人には興味がある。宗教に興味はない。仏教だろうがキリスト教だろうが、今までに数回長ったらしい話を聞かされて思っているのは、どいつもこいつも宗教にはまった人間からは同じ雰囲気が醸し出されている、ということ。どの宗派に自分の人生を預けても、傍目から見れば全部宗教に心奪われた人間でしかないんだなあと思う。彼らは熱心に教えを説く、私に対して語りかける。死ぬのは恐ろしいですよねだとか、人に殺されるとか殺したとかいうことを考えるのは心中穏やかじゃないですね、なんてことを喋る。万人が幸せになりたいと思うのが普遍ですよ、みたいなことも聞いた。まあ、妙なことに聞こえるから耳障りは良くないが、自分の好きなことについて語る姿は悪くない。滑稽に見えるその姿が、自分が創作について語る場合の姿なのだろうと戒めのように感じる。

今日は仏教について熱く語り、晩御飯の邪魔をして申し訳ないと口ではいいつつ話を切り上げる気配をこれっぽっちも見せないしつこい人から、矛盾したようなおかしなことを聞いたのでそれを書く。人の話を聞いて、黙って聞いていて、揚げ足を取れる箇所を見つけてはネタに創作をしようとほくそ笑んでいるのが私だ。滅多なことを言うから、簡単にからかわれるんだ、私にな。何も言わない、接近しないでいれば安寧に居られたのにさ、私が開ける扉のインターホンを鳴らすから、こうやって話題にされるんだ。

で、その矛盾まがいの言葉なんだが、その人はこう言った。「人は裏切る」と。事実だろう。私はそのように思っている。人と仲良くなろうという下心を抱えて他人に近づけば、その思い通りにいくことは無く、狙いが叶わなかった人間は裏切られたと感じる。私は裏切られたと思う瞬間がめっちゃ怖い。怖いから、世界にどんな人間が居ようとも、先入観は裏切る者として定めている。…というのは私の余談で、本題はここからである。

「人は裏切る」と話したその人間は、続けて「だが仏は裏切らない」と言った。とにかく日蓮を褒めて心酔したが如く滔々と喉から音を立てて日本語らしき言語で仏教のよさっぽい表面を語っていた。興味の無い宗教の話だ、と思っていたからその人間が何を話していたのか途中から聞こえなくなった。ただ、矛盾してんじゃね、と引っかかったかぎかっこの部分は、少しだけその人間の言っている音を聞くための集中力を与えた。

なあ、仏が裏切らないものだったと仮定して、それを伝えている存在が裏切るものとしての人間であることっておかしくない?

人間であるお前が言うと、裏切らないはずの仏への信用も無くなるぜ、って。仏が本当に裏切ることがないのなら、その情報を私にもたらす存在も仏でなければならない。人間であってはいけない。なぜなら仏の信憑性を確実だと定義した人間自身が自身のことを信用に足らないと決めたからだ。これを聞いて、この人のことは信用できないし、仏とやらのことも今まで通り信用に足らぬ妄想なのだと思うに至った。人ってほんとおもしろい。人が一方的に話しているのを聞いてるだけで創作のネタになるものがたくさんある。つっこむ所がいっぱいある。

まとめとして、宗教に誘い込もうとされても、私は靡かないと考えている。もう宗教に似た概念におっこちているので。創作は私にとっての宗教である。好きなものだし、人生を支えてくれる大事なものだから、人様におすすめしたくなる。宗教の勧誘をする人間の気持ちも少しはわかるつもりだ。そして実際に行動に移しちゃった勧誘業務遂行人のことを見るのは楽しい。愚かしいとさえ思いながら、自分の姿を重ね、創作に勧誘する日が来れば他人からはこう見えるのだと客観視している。宗教自体に興味は無い。宗教のことを、捨てられない一等大切なものだと信じてやまない人間に興味があるんだ。